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宮崎での空襲 (都城市・延岡市・日南市・宮崎市)



こんにちは!宮崎のたくみ、兵庫のそうま、ひなたです。

今回は宮崎県で起こった空襲のブログをかきました!







都城空襲

YouTubeの語り部を聞いて

都城空襲の犠牲者

死者88人、負傷者43人(その内40人が18歳以下の子供)



昭和20年3月18日から始まった都城空襲は、主に軍事施設が爆撃の対象になり、市内はあまり爆撃されていなかった。

 しかし平穏だった都城にも5月8日の空襲では、市内にB29や戦闘機グラマンが襲来し、機銃掃射や爆弾を投下した。ラジオを縁側で聞いていた男性は、この爆弾の爆風により縁側から落ちた。

このような空襲の中でも8月6日の都城大空襲が1番怖かった。

◉この日便所の窓からグラマンを見て防空壕に入ったり、溝を這ったりして爆撃から身を守った。

1番多かったのがグラマンという戦闘機による、近距離爆撃・機銃掃射・焼夷弾攻撃だ。反復攻撃が数時間にわたって続き、あたり一面は焼け野原になった。

都城市にある都城駅、羽や胴体を作っていた川崎航空機の飛行場が攻撃対象だった。


この日空襲警報は鳴らず、学徒動員の生徒たちが寮に帰っているとき、寮を目標に爆弾を落とされた。

その結果家の近くの小さな病院には、脚が切れて脚がない人など多くの負傷者が病院に運ばれてきた。なかには、顔の形も分からない黒焦げの遺体が入った棺もあった。

このようなことより都城大空襲は本当に憎く、地獄であり、戦争が無ければこんな事にはならなかったと話されていた。




宮崎県延岡市

延岡空襲




即死者130人、 戦災面積2.18km

    被災戸数3,765戸、被災者15,232人


みなさんは宮崎県延岡市をご存知だろうか?

甘酸っぱい南蛮タレとタルタルソースが食欲をそそるチキン南蛮発祥の地だ。

太平洋戦争末期の1945年6月29日未明、延岡市の中心部を焼き尽くし多くの犠牲者を出した大空襲から今年で76年が経つ。

 延岡の街は夕焼けも川も綺麗で人々は穏やかな日々を過ごしていた。しかし6月28日の夜遅くに警戒警報は空襲警報に切り替わった。深夜、けたたましく鳴り響くサイレンに市民は一斉に避難したが「いつも通り敵機は上空通過だけで終わるだろう」と思っていた。だがその日はいつもと違って次第にB-29の旋回音が聞こえ出し不気味な落下音とともに焼夷弾攻撃が始まった。その空襲の猛烈な焼夷弾攻撃によって街は焦土と化した。

だんだんと夜が明けると爆撃機も飛び去り堤防に上がると一面焼け野原となり何も残っていなかった。

当時延岡市に住んでいた女性は防空壕に逃げる途中塀の影に隠れて頭を押さえている時に機銃掃射の音を聞いた。弾丸は50センチ先に打ち込まれていた。

自分たちの住んでいる家に帰ると何も残っていなかった。母が5歳で亡くなった妹の名前を呼んで御骨がないと泣き出し皆で探した。その後、泣き止んだ母はほかほかした骨壷を抱きしめホッとしていた。

その女性は当時日本は必ず勝つと信じていた。それは教育が原因であった。彼女は76年の時を経て考え方を変えた。「戦争は絶対にしてはならない、日本人だけではなくアメリカ兵もたくさん亡くなったと思うから。戦争は勝っても負けても大変なことということを若い人に伝えていきたい」と語った。




出典:youtube


   :index.html






日南


日南市の語り部の方より


戦時中に小学1、2年生だった人たちの体験談を見ました。

昭和20年の元旦には油津上空に偵察の為にB29が襲来し、昭和20年3月18日早朝6時頃、日南地方が初めて空襲を受けた。敵機は400機以上が襲来したと言われている。この空襲によって港周辺を重点的にグラマン機の機銃掃射、爆弾投下によって一帯の民家が焼失した。



昭和20年5月19日、漁業をしながら敵の飛行機や潜水艦の監視をしていた特殊漁船が米軍のグラマン機の攻撃を受け42人が亡くなった。

昭和20年7月16日の第4回目の空襲では、日本軍の弾薬庫となっていた天理教教会を狙ったため、一瞬で焼け野原となり、地区民27人と海軍兵が1人死亡した。

油津には魚が豊富であり、昔から食べ物に不自由することはなく、田舎の方から人々が米と交換してほしいと持ってきた。このように昔から食べ物に困らなかったことに加えて、宮崎のおおらかだという県民性もあったのか、あまり深刻に考えていなかったという。一番きつかったのは動員だ。若い子が戦地に行くと、感覚が麻痺してしまう。

戦後は一面焼け野原だった。米の配給などがあり、雑炊などあるものを食べていた。学生服もつぎはぎだらけで、のりでくっつけて使用していた。



戦争はもう二度と嫌で、この二文字を聞くだけで身が縮むような思いになる。

自分たちの平和や安全を考えるだけではなく、同じ地球の仲間として友好を深めることが大切だ。






宮崎市の空襲の状況

1945年3月18日から米軍のグラマンが宮崎初空襲延べ1400機赤江飛行場、宮崎駅付近を爆撃、敵艦載機午前6時に上空に現れ駅付近を機銃掃射。

宮崎ではほとんどが赤江飛行場をめがけていた。

たくさんの死者、病院、橋なども被害を受けている。

1945年7月17日、P47が市内に銃爆撃。

その他にP38、B24、P51なども襲来している。



100人もの民間人を含み下校途中だった児童も多く巻き込まれた

B-24により宮崎市は焼け野原と化した

〜機銃掃射〜

機関銃で敵をなぎ払うように射撃すること

一秒間に最大で70発以上の弾丸を放つことができる。家屋すれすれの低空飛行のため多くの市民を恐怖に陥れた




クイズ


グラマン機

Q.グラマン社とは?

A.アメリカ海軍の艦上機を多く製作していた会社

 現在は、ノースロップグラマン社となっている。


Q.このグラマン機は、日本海軍のゼロ戦には到底及ばなかった。では、どのように日本軍に対抗したか。

A.頑丈さ、防御力、数の優位を活かして集団戦法などで対抗した。


Q.グラマン社は、ある歴史的なことをしている。それは何か?(戦争とは関係ない)

A.月着陸船のアポロ11号を担当し、人類最初の月面着陸を成功させた。また、翌年のアポロ11号の事故でも、宇宙飛行士3人を生還させるのに決定的な役割を果たした。



焼夷弾について

通常の銃砲弾・爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っている燃料が燃焼することで、対象物を火災に追い込む。


このような、燃焼を利用する銃砲弾が全て焼夷弾ということではなく、同様の機構を持ちながらも目的の異なる、照明弾・曳光弾・発煙弾・ガス弾などもある。




(拓海)

宮崎の各空襲を調べる中で、自分の知らないことや、空襲の悲惨さなど、考えることが沢山ありました。また、空襲被害を受ける中でどんな生活をしていて、どんな気持ちだったかなど、話を聞く機会があまりないけど、インターネットから探すことで、いつ、どんな時でもたくさんのことが学べることがわかりました。

この空襲被害などをまとめる上で、たくさんの人に協力してもらい、皆同じ気持ちを持っていて、決してひとりでは出来なかったと思います。

自分は宮崎に住んでいるのでもっと色んな人に広めていき、たくさんの人に興味関心を持って貰えるように頑張りたいと思っています。


(そう)

僕は、兵庫県に住んでいるので、正直、全くと言っていいほど宮崎空襲のことは知りませんでした。

でも今回、このように宮崎空襲について調べたことで、

自分が知らないからと言ってそこに戦争の被害がなかったわけではない。

自分は知らなくても日本のどこかで、必ず戦争の被害は起きている。

だからこそ戦争は恐ろしいと改めて実感しました。

今回のように知る機会を得たことで、これからも積極的に調べて、知識を深め、さらにそれを周りの人々に広めていこうという思いが強まりました。



(ひなた)

長崎、広島に落とされた原爆については学校の授業で習ったり、実際に行ったりなどとしてある程度の知識と関心がありましたが、自分の県や他の県で起こった事についてほとんど知らないことに今回気づきました。

 私は延岡空襲について調べましたが兵庫県に住んでいる私は正直聞いたことがありませんでした。空襲による被害や大きさは県によって様々ですが空襲にあったどの県にも苦しんだ方がいたことは事実です。

まずは自分の県であった空襲について知識を深めること。それが戦争を知ることに繋がるのではないかなと思います。



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